ふつうのふつうの、ある夏の日に
「その日は、そう、いたってふつうの日だった。」
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鈴(れい)はかがんで垂れてきた濃紺色の髪を肩の後ろにかけなおした。
花壇に生える雑草は今日も粘り強く地に根を下ろしている。日差しは暑く、じりじりと頭を焼いてくる。
抜いても抜いても終わりが見えない草取り。もうこうして20分は過ぎているのだが、一向に減る気配はない。だが、ときおり後ろから聞こえてくる楽しそうな笑い声は鈴の心に涼しい風を吹かせてくれる。なので、鈴はかろうじてため息をこぼさずに済んでいた。
そんな作業に追われている鈴をあざ笑うように草はきらきらと日光を反射している。暑さのせいで体がだんだん重くなっていく。こんなに暑く重苦しい日でも、懐に入れた刀の柄を手放すことはできない。真っ黒で重苦しい柄だけになった刀。鈴は一瞬、そのことが頭によぎった。
ピシシシッ
突然、奇妙な音が耳に入ってきた。鈴は音がしたほうをみやる。
それは地面の中だった。
なにかが割れたような、動いているような、そんな音が聞こえてきた。鈴は耳を澄ませてみる。異音はわずかだが、不定期に地面の中で鳴っているようだ。鈴が異音に耳を澄ませていると、背後にいる人々の声がよく耳に入ってきた。
鈴は彼らのほうを振り向いた。
妹と幼馴染と師匠と
後ろの道場ではいつもと変わらず、門下生らが気合いの込めた声で打ち合いを行っていた。
凛(りん)や颯馬(そうま)、海人(かいと)、里津美(りつみ)の4人だけは庭でホースを使い花壇に水掛けをしている。
振り返ったときは、ちょうど妹である凛が緑色のホースを高く掲げたときだった。凛の隣にいる明るい髪色の男、颯馬が両手に金具を持っている。どうやらホースの金具を取り換えてシャワーが出るようにしたらしい。凛はホースから出てくる水がシャワーになったのを確認して、きゃあきゃあと高い声をあげてはしゃいでいる。
明るい日光のもとで水がかかり、鈴の視点からは凛との間に小さな虹ができた。自分と同じ青みがかった黒髪を今日はおろし髪にしている妹。その妹はこんなことでも至極楽しそうで、そんな妹を海人と里津美が仲睦まじく寄り添いながら見つめている。
和やかな空気が流れる中で、鈴だけがいぶかしげな表情でいることに誰も気が付いていない。
鈴が道場の縁側に目を向けると、妹たちを見守る格好で座っている壮年の男たちが目に入った。師匠である朝鷹(あさたか)は里津美の父、坑助(こうすけ)と茶を交わしあいながら何かを話している。渋い男という言葉が文字通り似合うこの二人は朝鷹が持っている竹刀にときおり目をやっているので、おそらく剣術について語り合っているのだろう。
そのさらに横には、里津美の母、那波美(ななみ)と海人・颯馬らの母、杏子(きょうこ)が並んで座っていた。仲良さげに笑いながら庭にいる子どもたちを見ている。
両者とも話に夢中でなかなかこちらに気が付かなかったが、なにか言いたげな目でこちらを見続けている鈴にようやく朝鷹だけが気づいて、鈴と視線を合わせた。
そのときだった。
にわかに地面が揺れ始めた。
襲い掛かる地震
「地震ー?」
ゆったりとした声で里津美が地面を見ながら言った。地震はこの国ではよくあることだ。里津美の顔にはなんの不安も浮かんでいなかった。
バキバキ!!
しかし、地中の奥深くからおぞましい轟音が鳴りだしたので里津美は表情をこわばらせた。その直後、地面が大きく揺れはじめる。
「きゃあ!」
おだやかな様子でいた里津美だけでなく、辺りにいた人々はも口々に悲鳴をあげた。
轟音とともに建物がけたたましい音を建てながら揺れはじめる。その揺れは生ぬるい揺れではなかった。下から突き上げられ、かと思えば沈み込み、そして横に横にと流される。
まるで地面がプリンになったよう揺れが突然襲い掛かってきたのだ。
「きゃああー!」
大きな地震に襲われ激しい悲鳴が響き渡った。
鈴はもとから草抜きのために地面にしゃがんでいたから大丈夫だったものの、庭で水をまいていた凛はバランスを崩す。颯馬が凛に覆い被さるようにしてかばおうと努力している傍ら、海人も恋人である里津美の腕を掴むと自分の胸の方に抱き寄せた。
朝鷹は一度庭に立ったものの、激しく揺れる建物を見て門下生らのもとに駆け寄ろうとしていた。しかし、あまりの大きな揺れに姿勢を崩して転けそうになっている。それを慌てて抗助が引き止め縁側下に引きずり下ろした。
母親たちは悲鳴をあげながらも庭にいる子どもたちのもとに向かおうとしていた。しかし、到底歩くのは無理と判断したようで地面にしゃがみこむ。
これらは本当に一瞬の出来事で、鈴は事態を把握するのに必死だった。動くことなんて到底できない。しかし、その渦中でも兄妹が考えることは同じだった。
兄と妹は目を合わせる。
「お兄ちゃん!」
颯馬の下にいる凛が自分に向かって必死に声をあげながら腕を伸ばしていた。
鈴も凛に向かって腕を伸ばす。
だが、辺りにとてつもない光が溢れ鈴の視界は奪われた。
光と音に包まれた世界
その光はあまりにも眩しく、ふだん悲鳴をあげない鈴でも唸り声をあげてしまうくらいだった。そのうち、視界は真っ白に覆われた。鈴はもはや自分が目を開けているのか閉じているのかわからなくなった。どうしたわけだか、瞬きをしているはずなのに視界が真っ白なまま変わらないのだ。
そのうえ、轟音とともにわけのわからない音が聞こえてくる。洪水のように激しく流れる水の音、雷のような爆音、甲高い人の叫び声、そして馬のいななきに、南国の鳥の鳴き声……。まさに、わけのわからない音たちが耳を襲ってくる。
混乱する鈴を追い続けるように揺れは続き、鈴は本能的に頭を抱えた。まるでトタン板の上に乗って荒れる海を渡っているようだった。
鈴が気が狂いそうなのを必死にこらえていると、すさまじい音が鳴り響いた。そして強いほこり風が鈴を襲ってくる。
「うっ」
鈴は風に弾き飛ばされ地面に思い切り体を強打させられた。全身に走った衝撃に苦悶の声をあげた鈴は、身をよじらせながらなんとか目を開けた。
それでわかったのだが、いつの間にか視界が開けてきていた。いくら目を開けても閉じても真っ白だった視界にぼんやりとした暗闇がうつっている。しかしそれもつかの間。今度は、大量の砂埃が鈴を襲ってきた。
「げほっごほっ」
鈴は目と鼻の痛みを感じながら、急いで体を起こした。涙が出てとじそうになる目をこじ開け、鼻を手で覆いながら辺りを見渡す。
辺りはほこりとがれきであふれていた。砂埃に覆われた世界はさっきまでの平和な光景とは打って変わった光景だった。足のすくみを抑えながら、鈴は顔をあげる。
「凛!凛!どこだ!!」
事態が起こる前に妹が手を差し伸ばしていたであろう場所を見るが、そこにはがれきがあるだけだった。立ち尽くす鈴の顔はみるみるうちに蒼白になっていく。がれきに駆け寄ろうと足を踏み出した鈴だったが違和感を感じて立ち止まった。
砂埃の奥から得体のしれない音が聞こえるのだ。さっきからずっと水の流れる音と、馬のいななきが聞こえてくる。道場の近くに川はなかったし、馬も当然いるはずがない。
なのに、音がする。
突然、後ろから激しくはばたく音が聞こえてきて鈴は振り向こうとした。だが強風にあおられ振り向くことはかなわなかった。鈴が転倒しないように必死に踏ん張っている真上を何かが通っていった。
ぬめりけのある被膜、人の体をわしづかみにしてしまえそうな猛禽類の足、硬質なうろこに長いしっぽ。
奇妙な生物はものすごい勢いで鈴の真上を滑空していき、鈴はついに風圧で弾き飛ばされた。
再度、地面にたたきつけられた鈴は痛みに顔をゆがめる。しかし、またもや白い光が視界を奪い鈴はそれどころではなくなった。光は一瞬で、続いて大地を揺るがす轟音が鳴ってくる。鈴は耳を抑えながら音のしたほうを見た。
すると、さきほどの奇妙な生物の口から紫色の光が放たれているのが見えた。どうやらこの生物が雷を放ったらしい。きわめて迷惑なその生物は地面に伏している鈴には目もくれず、力強く羽ばたくと上空へと昇っていった。
生物が上に抜けていくとともに、辺りの砂埃が巻き上げられていった。
鈴の視界は次第にクリアなものとなっていく。
「……」
鈴はゆっくりと体を落とすと、目の前の光景に肩を落とした。鈴が肩を落としたのは、もしかしたらこのときがはじめてだったかもしれない。第二次世界大戦の真っただ中にいても、肩を落とすことはなかった。無情な日々でもなぜだか受け入れることができていた。
それなのに。
鈴の目の前、道場があったはずの場所には、がれきと、森が広がっていた。まるでどこからか移植してきたかのように、広大な森が突然目の前に生えていた。
いつもの光景、いつもの世界、そのなにもかもが変わっていた。
わけのわからない光景をただ見ていることしかできない鈴を笑うように、森の中で馬がいななき続けていた。